この辺りでは、「桃・栗3年、柿8年・・・柚子の馬鹿めが18年」と言います。
また、「柚子は植えた人が骨になってから(高齢になって亡くなってからの意味)でないと実がならない」という人もいますから、収穫できるまでに非常に時間がかかる果樹と考えられていたようです。
でも、泰阜村の南部には昔から柚子があったようです。
泰阜村は、大きく南部と北部の2集落に分けられるのですが、その南北間を結ぶ道こそ山や川に阻まれ、貧弱なものでした。
そのために、村内には何でも南北二つあり、小学校も、中学校も、保育園も、南北2箇所にありました。役場は本所と支所という形でしたが、やはり南北にありました。
農協も当然、泰阜南農協・泰阜北農協の2つの農協でした。
昭和40年代前半、当時の南農協のS理事が、管内の農家に柚子の苗を配布することを提案します。
早速それは実施され、南農協管内の農家70~80軒くらいに、柚子の苗が配られたそうです。
このS理事は、後に泰阜南農協の組合長となって農業振興に非常に尽力されますが、「このあたりは柚子の北限だから、鮮やかな黄色に色づいていいものが採れる。柚子の産地に育てていきたい。」という思いがあったようです。(ちなみに、当時の北農協は、コンニャクの生産が好調でした。)
当時配られた柚子は、村の農業が調子を落としていく中で、全てが順調に育ったわけではありません。
また、農協も合併を繰り返し、泰阜南農協はとうの昔に姿を消してしまいましたが、「うちの柚子ねぇ、私がお嫁に来た頃にもとからあった柚子より、お嫁に来てから植えた柚子の方が多くなったのよ」という話を聞くと、当時の思いは間違いなく今に繋がっているように思います。
伝統的な加工品「柚餅子(ゆべし)」と、新たに生み出された「柚子チョコレート」。さらに柚子の加工品開発に取り組んで、農業の再生に努めています。