村の福祉の理念と在宅福祉の始まり
「誰もが老いて死を迎える」
昭和59年泰阜村診療所へ着任した医師が言ったことばです。
あたりまえですが、どんなに医療が進歩しても、老いを止めることはできません。
残念ながら、「死ぬまで健康」は幻想、「寝たきり」や「痴呆」にならないなんて奇跡。ならば、誰もが老いて死んでいく事実を認め、障害をもっても人間らしい老後を送り、幸せな死を迎えるお手伝いをすることが行政の責任ではないかと考え、在宅による高齢者福祉に取り組みました。
自分を育ててくれた親が直面している現実、やがて自分や伴侶にも訪れる事象。
人生の終焉の過ごし方を向き合い考えましょう。
独自福祉の背景ときっかけ
泰阜村の人口と高齢者数の推移
昭和10年の4725人をピークに、昭和10年代の戦争や満洲開拓団送出、30-40年代にかけての経済成長期の若者流出などにより、昭和60年には2461人とピーク時から半減しました。減少率は一時よりは鈍化の傾向ですが、徐々に減少しています。
高齢者は急速に増加し、平成17年799人でピークを迎えました。以後徐々に減少傾向が続いています。
泰阜村の高齢化率の推移
65歳以上の高齢者の割合は、人口の減少、少子化、寿命の延長に伴い急激に増加し続け、平成17年でピーク38.4%となる。以後、一時的に率の変動はあるものの徐々に減少傾向を示す。高齢者対策にほっと一息。
と思いきや、後期高齢化率はいまだ増加傾向にあり、高齢者全体の7割近くが後期高齢者となっている。支援や介護が必要な方が出現する割合は相変わらず高い状況がつづき、もうひとふんばり!
時代の流れと高齢者の暮らし
昭和30後半—40年代 高度経済成長期
若者が都会へ流出する
高齢化率低く、こんにゃく、養蚕、林業生産に関わる
昭和50年代 村内に工場誘致
女性の社会進出 工場勤め
担い手不足により農林業の衰退
高齢率まだ低い 農業に関わる
家族介護困難、病院、施設の利用が多くなる
在宅死亡率激減
昭和60年- 高齢化率20%を超える
独居高齢者増加 介護が必要な高齢者が目立つ
年金額低い 生活支援必要 高齢者への施策乏しい
自宅での生活が続けられない 在宅福祉事業の始まり
在宅死亡率(在宅死亡率/高齢者死亡率)の推移
65歳以上の高齢者の割合は、人口の減少、少子化、寿命の延長に伴い急激に増加し続け、平成17年でピークを迎え38.4%となりました。
以後、一時的な率の変動はあるものの徐々に減少傾向を示しています。高齢者対策にほっと一息つきました。
と思いきや、後期高齢化率はいまだ増加傾向にあり、高齢者全体の7割近くが後期高齢者となってきました。支援や介護が必要な方が出現する割合は相変わらず高い状況がつづき、もうひとふんばり!といったところです。
在宅福祉事業のきっかけ
村の診療所に新医師赴任 昭和59年
高齢者のおかれた状況にショック 村への提言
貧しい生活とさみしい終末
施設福祉と医療幻想 老いに対して医療は限界
「老いと死」について
老いと死は必ず誰にも訪れる
老いること、障害をもつこと、病気に罹る、死ぬことはさけられない現実
人としての価値 人生の最後のステージの充実
介護をどうするかでなく、人としてどう生きるか
高齢化した社会において、高齢者を支え、救うのは「福祉」
多くの高齢者は住み慣れた自宅での生活を望む
昭和60年ころの泰阜村は、高齢化が進み、要介護者が増加していたにもかかわらず、行政の福祉意識の低さ、介護力不足や介護サービスの不足、など多くの問題を抱えていました。こうした中で、高齢者は年金額も低く、十分なサービスを受けることができず、少なからずさみしい終末が強いられるような状況でした。
昭和59年に診療所に赴任した網野医師から、村に対して高齢者福祉事業や医療の在り方について様々な提言があり、各署での議論や村内へのアンケート、学習会などを重ねながら、在宅福祉事業を推進することとなります。
何より村の高齢者の多くは、どんな状況になっても住み慣れた自宅で最期まで暮らし続けることを望んでいたのです。