野沢菜以上に甘い!柔らかい!長野県南信州地域の伝統野菜(ローカル野菜)源助かぶ菜
源助かぶ菜とは
源助かぶ菜は、長野県に現存するカブ・ツケナ類の中で、唯一育成から定着までの来歴が明らかになっている品種といわれています。
明治時代に愛知県西春町(現在の北名古屋市)の井上源助氏から伝わり、伊那谷を中心に普及し、「飯田かぶ菜」とも呼ばれています。
飯田・下伊那地方では、「野沢菜よりもやわらかく甘みがある」とされて好まれていたのですが、単位当たりの収量が野沢菜に劣るため、現在では残念ながら野沢菜の方が優勢になっています。
この源助かぶ菜の原種は、今では泰阜村にしか残っていないと言われており、貴重な財産です。
源助かぶ菜を後世に残していくために保存活動や市場づくりに努めていきます。
源助かぶ菜
泰阜村教育委員会「古老は語る」(1988発行)より岡本茂勝さんの手記による
戦後40年余り食生活の変化により近頃は昔のように沢山漬物を漬ける家は少なくなりました。今泰阜村で漬け菜として野沢菜と並んで作られている源助かぶ菜について私の知っていることを書いてみます。 愛知県西春日井郡西春村(現在北名古屋市)出身の井上源助という人が私の所を宿にして泰阜方面で商いをしていたようです。種物のほかに鎌等も売って歩いたそうです。またこの地区へは稲を扱う「コバシ」を普及させたとも聞いております。私が知るようになった大正時代には2代目の井上源助(長男の井上一太郎)という人が各農家を回っていた。当時漬け菜は源助かぶ菜をほとんどの家で作っていたが、いつから源助かぶ菜と呼ばれるようになったかはっきりしない。 昭和初期になって現在の近藤種苗店の主人が源助さんの変わりに来るようになり、私の所を宿にして春秋2回来て数日泊まり泰阜地区を回って次の商いに行くという具合でした。昭和9年に近藤さんは独立して飯田へ店を構えてからは商いに来なくなったが、その後も付き合いを続けていた。昭和22年4月、飯田の大火で近藤種苗店が全焼した際、父が家を半分譲ってやりました。 戦時中は種苗統制により野菜の種も少なく食糧増産に力を入れていたそうです。終戦後も源助かぶ菜はどこの家でも作り特に切り漬けにすると味がよく評判が良かったと近藤さんから聞きました。昭和24年になり父が近藤種苗店の依頼で源助かぶ菜の種取りを始めたが、養蚕に切り替え、現在は弟が続けている。金野では森沢信子さんが昭和43年から61年まで作っていた。他に坂本静司、坂本彰一さんも近藤種苗店の種を作っていたそうですが種の収穫時期に雨が降って芽が出たり、山鳥が来て困った話も聞きました。昨年2月には東京学芸大学教授の市川健夫先生が尋ねてくださり源助かぶ菜の話を聞きましたところ、今は伊那地方しか作ってないようです。近藤種苗店の話では一時期野沢菜に押されていたが最近になって見直されて来たとのことでした。現在県内で作られている代表的な漬け菜は源助かぶ菜の他に5種類あると教えてくれました。また野沢菜の原産地は大阪の天王寺だとも聞きました。
源助かぶ菜は諏訪紅蕪に味、形、色その他もよく似ているようです。 昨年、三重県にある農林水産省野菜試験場で源助かぶ菜の種を持っていきましたが、今後源助かぶ菜として保存されるようです。 現在源助かぶ菜の種を作っているのは岡本東の所だけになっている。雑種が交配しないように気をつけているようだがそれでも冬になると近藤種苗店が確認に来て混ざりのあるものは抜き取って帰るようです。 源助かぶ菜の種も金野でした生産されなくなったとすれば貴重な感じがする。今後また古い物が見直される時が来るかも知れませんが・・・大切にし頑張って続けて欲しい。 思いつくままにまとめました。 |