泰阜村 :: 学校美術館

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学校美術館の歩み

1.昭和初期の世相

昭和4年(1929)にアメリカで始まった世界恐慌は世界中に広がりました。日本でも恐慌の影響を大きく受け、対米輸出の激減から生糸の価格が暴落し、養蚕業から現金収入を得ていた農山村に大きな打撃を与えました。

泰阜村でも養蚕を始め、米・木材・炭等から得る収入が半減してしまい、その為に学校に弁当を持ってこられなくなったり、休んだりする子供が出てきました。

当時、泰阜北学区は昭和2年の校舎移転改築の為に多くの費用を負担していたこともあり、教育費負担は一戸あたり約40円(県平均約20円)で県下でも最も多額の支出をしていましたが、恐慌による不況から、先生方の給料さえ満足に支払えなくなりました。(当時、教員の給料をはじめとする学校費用は全て村負担でした)

そんな中、先生方の給料の1割を村に寄付して欲しいと村から要望が出されました。日本中が不況の中、県下各地で教員給与強制寄付が波及していたのです。泰阜村でもやむを得ず他の町村に倣って、教員給与の一部寄付を村議会で議決しました。

2.美術館建設の端緒 吉川宗一校長の願い「貧すれど貪せず」

当時の泰阜北小学校長、吉川宗一先生は「お金を出すのはやぶさかではないが、給料の一部寄付をもってしても、それは学校費補填のごく一部にしかならない。むしろそのお金を将来の教育振興に役立てるべきである」と考え、情操教育の一助となる美術品購入を吉沢亀弥村長並びに村議会に建言しました。

そのお金を貯めて絵や彫刻・書などの美術品を買い、「将来、村を背負って立つ子供達の夢や愛を豊かに膨らませてやることが大事だ」と考えたのです。「どんなに物がなく生活が苦しくても、心だけは清らかで温かく豊かでありたい」「貧しいけれども、心は貪しない」という信念です。

美術品を集め、児童の情操教育を行うと同時に、将来はこの地に美術館を建設したいという熱意を持っていたのです。

3.教育を大事にする泰阜村吉沢村長と村民の決意

一部に、「学費の軽減に充てるべき」という反対意見はあったものの、それまでに培われてきた「学校や学問の尊重が最も大事である」という教育尊重の気風から、泰阜村のほとんどの人達はこの考えに賛同し、寄付金の使途については学校側に任せるという事になりました。吉川校長の意見が取り入れられ、その事業については学校に一任されたのです。そして昭和5年(1930)3月26日学区会で、美術品の収集と泰阜学校美術館の造営が決議されたのです。

4.倉沢興世先生の協力

当時、この泰阜村出身で彫刻家を目指して修行する倉沢量世(後に興世と改名)という青年が苦学の末、東京美術学校に入り、帝展に連続入賞するまでになっていました。倉沢先生は昭和2年母校の校舎改築のお祝いに、少女像「偲」<大正15年・3度目の帝展入選作品>を寄贈してくださっていました。吉川校長はその「偲」を見て甚く感動し、美術による情操教育を思い立ったといいます。

早速、吉川校長は上京して倉沢先生を訪ねました。泰阜小学校の「美術による感性の陶冶」「絵や彫刻にふれることで人間としての心根を豊かにしていくこと」の構想とその熱意に感動した倉沢先生は全面的な協力を約束し、吉川校長を激励しました。

倉沢先生は著名な作家や知人にも学校美術館の構想を伝え、作品の寄付を求めてくれました。丸山晩霞は「さすが信州教育だ。一つの学校や村で美術館を造るなんていうことは世界でもあまり例がない」と大変感動して、日本画「アルプスと高山植物」を描いてくれました。また、中村不折は「丸山が出すなら」と書「啓発智能成就徳器」をくれました。

5.美術品購入の努力

学校では泰阜村や長野県内の有名な作家の絵や書を買うことになり、その第1号に菱田春草の姪にあたる菱田きくの「紫陽花」を購入しました。その後も児童生徒までもが寄付を寄せ、先生方や村人達の協力で素晴らしい美術品が集められていきました。中には泰阜の小学校を卒業してすぐに就職し、そこで働いて得たほんの僅かな給料の中から、50銭・1円と送ってくれる女工さんもいたのです。

このように、多くの人々の協力で次第に作品が増えていきましたが、昭和16年、戦争の気配が濃くなるとともに美術品は封印されてしまいました。

6.美術館の建設

時が流れた昭和26年、当時の久保田倫校長は戦前に収集された40点に及ぶ美術品が収蔵庫に封印されたままになっているのを見て残念に思いました。中学校の坂巻和一校長と相談のうえ、講和発効記念事業として小中学校職員及びPTAが一丸となって美術館の再興を計画・推進することになりました。しかし、第2次世界大戦後の困窮の最中であり、おりしも昭和27年は冷夏による不作の年でした。その為なかなか賛同が得られず、何とか工事を始めましたが、寄付金は集まらず工事はストップしてしまいました。

ところが、この美術館建設の話が新聞に載り、その記事を見た卒業生達から激励の手紙と共に寄付金が送られてきたのです。これにより美術館建設の気運が一気に盛り上がりました。

反対者を説得し、児童生徒・先生・同窓会・PTA(当時の会長は倉沢興世先生)など村中の協力を得て、建設しました。中には自分の山から木材を切り出してくれた人達もいました。

昭和29年(1954)、構想から24年後、学校の裏山に美術館が建てられました。満天星と松の木に囲まれ、宇治の平等院を模した美。

7.美術館の移転

昭和40年頃になると、美術館の維持や作品修復等が困難になってきました。そこで将来のことを考え、北地区全戸の署名を得て、昭和46年にPTAより村に寄付されました。また、昭和50年(1975)現在の校舎を造るにあたって、美術館が老朽化し美術品の管理に適さなくなった為、2階に展示室を設け、収蔵作品を移しました。

その後、少子化による児童生徒の減少により、平成5年4月南・北中学校が田本地区に統合され、平成23年4月には南・北小学校が中学校に併設する格好で統合されました。統合に伴い美術館展示室及び所蔵庫も新しい小学校内に設置されました。

8.美術館の現在

その後も寄付や購入、作品修復を続け、今では池上秀畝作品をはじめとした収蔵作品が約400点に達する程となり、年間約500人の見学者が鑑賞に訪れています。新しく統合された泰阜小学校の美術館展示室にて公開しています。

先人の求めた『貧すれど貪せず』の心(吉川宗一校長・吉沢村長等による美術館建設の精神)、倉沢興世先生の言う『夢』、久保田・坂巻両校長、金田一馬氏等の貴い志、泰阜の人々の教育への想い等を、『泰阜村の精神』として子供達に継承していきたいと考えています。

 

学校美術館ホームページ

学校美術館.JPG

昭和29年に建築された学校美術館

(現在収蔵品は泰阜小学校で展示しています。)